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電化の歴史 |
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電気文明の世紀と呼ばれる20世紀、 |
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ついこの前までの20世紀、私たちの家庭生活や都市や産業は、電気の発達によって目覚しい変化を遂げました。天才エジソンの発明がこの「電気文明の世紀」をもたらしたと言っても過言ではないでしょう。本論に入る前に、ちょっとだけエジソンに触れてみます。余談ですが、Edisonをさかさまにすると、ラグビー用語のNo-sideになることに気づきました。ノーサイド気分で以下お読みください。 エジソンの特許第1号は、電気投票記録装置。1868年、21歳の時の発明です。日本の明治元年に重なりますから、この年を「電化元年」として、彼我の電化の歴史を重ね合わせて見てみるのも面白そうです。この発明は不評でしたが、翌年の株式相場表示機は高い評価を得ました。この表示機の製造のために、1870年にはニューアークに工場が設立されます。1876年には、念願であった研究所をニュージャージー州のメンローパークに設立し、電話機の発明に取り組みます。因みに電話機の発明ではベルが有名ですが、ベルの電話システムにはエジソンの送話機が使われています。 1878年に電灯照明会社を設立したエジソンは、電球の発明に取り組みます。そして翌年には40時間の連続照明に成功しました――この時使ったフィラメントが京都岩清水八幡宮の竹を炭化したものであることは(日本では)有名です。余談ですが、エジソンが炭化を試みたフィラメントの材料は6千種類以上に及ぶことが、実験ノートに記されています。偏執的とも言える努力家の一面がうかがえます。「発明は1%のインスピレーション(閃き)と99%のパースピレーション(汗)‥‥」と自ら語った有名な言葉の意味も迫力をもって伝わってきます。更に余談ですが、“エジソンペーパー”と呼ばれるエジソンのメモ帳は500万ページに及び、今日でも多くの研究機関がその解読に努めているそうです(スゴイ!)。 1881年、34歳のエジソンは、ニューヨーク5番街にエジソン電灯会社を設立し、翌年には中央発電所を完成して、世界初の電力供給システムを作り上げます。 こうして、電力供給事業に乗り出したエジソンは、1887年までに121ヶ所の中央発電所を建設して、電力供給事業を独占するに至ります。発明者であると同時に起業家でもあったエジソンの面目躍如といった処です。 1931年――満州事変が勃発し、日本が大戦へと傾斜を深めた年、エジソンは84歳で他界します。栄光に満ちた一生の間には幾多の挫折があったこともよく知られている通りです。選鉱事業の大失敗はその一例です。特許訴訟に明け暮れて偏屈になり、周りからの尊敬も財産も失うなど、幸せとは縁遠い晩年だったようです。最も力を注いだ電力供給事業は、激しい争いの末に天才発明家のニコラ・テスラと起業家ウェスティング・ハウスの交流発電に取って替わられます。遠くから送電する「集中型発電方式」の電力供給システムにおいては、変圧が容易な交流の方が優利であったことが、エジソンの直流発電方式が敗れ去った理由です。余談ですが、燃料電池に代表される「小規模分散型」の電力供給システムにおいては交流のメリットは無く、電子制御が不可能なことや力率ロスのような交流のデメリットが浮上し、(百年を経て)再び直流発電全盛に戻りそうです。 ともあれ、エジソンによって礎を築かれた「電化」は、戦時中の停滞期を経た後の20世紀後半に猛烈な勢いで進展して世界を席巻し、「電気文明の世紀」を形成するに至ります |
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■ 文明開化 エジソンが電力供給システムを完成した翌年には東京電燈会社設立。 |
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日本で初めての電気事業会社「東京電燈(東京電力の前身)」が1883年(明治16年)に設立されます。エジソンが世界初の電力供給システムを完成したのが1882年――その翌年のことですから、明治初期の文明開化の勢いは想像を絶します。1887年には神戸電燈、1888年には大阪電燈と京都電燈、1889年には名古屋電燈が設立され、1892年には、全国で35,000灯の電灯が取り付けられるに至ります。余談ですが、1888年には、日本でも電灯電力の供給は直流・交流のいずれがよいかで議論され、東京は直流、大阪は交流を支持しました。 その後、1895年には東京も交流に切り替えることになり、浅草に火力発電所を建設し、ドイツのアルゲネ社製50Hzの交流発電機を運転して広域営業をはじめます。一方、大阪電燈は当初125Hzの米国トムソン・ヒューストン社(後に米国ゼネラル・エレクトリックが吸収)製の発電機を使用していましたが、1897年にはゼネラル・エレクトリック社製60 Hz発電機に切り替えます。その後、神戸・京都・名古屋の電燈会社もゼネラル・エレクトリック社製60 Hzを採用します。現在、富士川を境に東は50 Hz、西は60 Hzとなっている不合理の出発点です。欧米文化の取り入れが早過ぎたことによる混乱とも言えそうです。 電気を動力として使用することも積極的に進められます。1890年に建設された浅草陵雲閣に、日本最初の電動エレベーターが設置されます。1895年には、日本初の電気鉄道である京都市電が開業、1898年には名古屋、1903年には東京と大阪にも電気鉄道が開業しています。余談ですが、エレベーターの歴史はアルキメデスが紀元前に人力巻き上げ機を考案した処までさかのぼりますが、現在の安全装置つきのエレベーターは1853年に米国のE・Gオーチスによって発明されました。オーチスは電動式も考案しましたが、1861年に死去。後を継いだ息子のチャールズとノートンが1889年に電動式のエレベーターの実用化に漕ぎ着けます。浅草陵雲閣にオーチスの電動エレベーターが設置されるのは、そのたった1年後のことです。西洋文明を積極的に取り入れたものの、木造12階建の華奢な構造とエレベーターの動きがマッチせず、危険であるとして、浅草陵雲閣のエレベーターは、しばらくして当局から運転が差し止められました。文明開化の逞しさとチグハグさとが感じられる愉快な話です。 かくして、文明開化の勢いに乗って、欧米とほとんど同時進行という、信じがたい早さで日本の「電化」は始まります。 |
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井戸端での洗濯は本当に辛かった。 |
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1915年(大正4年)、猪苗代水力発電所から230km離れた東京への高圧送電が成功し、本格的な長距離送電時代が始まります。大量の電力供給は新たな産業の成長を促しましたが、付随して家庭における電力消費拡大のキャンペーンが国策として進められました。この流れに乗って、欧米で実用化済みの電化製品のほとんどが、大正から昭和にかけて国産化されました。この先鞭をつけたのは扇風機でした。扇風機の国産第1号(羽が回ると白熱灯も点るもの)は1894年に登場していましたが、1916年には芝浦製作所(現在の東芝の前身の一つ)によって大量生産が開始されます。扇風機に続いて電気アイロンが普及しました。電気アイロンは1915年から芝浦製作所によって初めて国産化され。爆発的な普及を示しました。1924年には国産ラジオ発売開始、1930年には電気洗濯機と電気冷蔵庫が登場、翌1931年には電気掃除機(いずれも芝浦製作所)‥‥と、国産の電化製品が次々に登場します。しかし、電気アイロン以外の電化製品の普及はなかなか伸びません。1937年における電化製品の普及台数は、アイロンが3,131,000台、電気時計418,000台、電気井戸ポンプ202,300台、冷蔵庫12,215台、掃除機6,610台、洗濯機3,197台、ルームクーラー260台(ゼネラル・エレクトリック社のレポートによる)‥‥と低い数字に留まっています。開発ラッシュと国策キャンペーンにもかかわらず、電化製品はまだ庶民には高嶺の花の存在でた。 荒廃した国土から国民が立ち上がるエネルギーは、電化製品に象徴される豊かさへの憧れによってもたらされた部分が少なからずあったようです。1947年にはトースターが大流行、1953年には噴流式洗濯機が発売され、テレビの本放送が開始されます。1955年には初のトランジスターラジオや完全自動式電気釜が登場します。1956年には電気冷蔵庫がブームを呼びます。折からの好景気(神武景気)もあいまって、一大電化製品ブームが訪れました。なかでも電気洗濯機・電気冷蔵庫・テレビは「三種の神器」(1960年の流行語)と呼ばれ、庶民の憧れの的とまりました。1958年には15.9%であったテレビの都市部での普及率は、翌年には皇太子殿下のご成婚がテレビ中継されたことで一気に33.5%に達し、東京オリンピックが行われた1964年には都市部で90%を超し、農村部でも81.7%に達しました。 電気洗濯機と電気釜の普及は、主婦を家事の苦役から解放したという点でも、画期的なできごとでした。1944年満州生まれの私も、戦後引き揚げてきてからは、赤貧洗うが如きといった少年時代をすごしました(当時はみんなそうでした)が、共同井戸で水をたらいに汲み出し、洗濯板で洗濯物をこすっていた母親の姿は今も眼に焼きついています。たまに手伝った時の手を切られるような水の冷たさも記憶に残っています。母親の手も、子供たちの手も、冬にはアカギレだらけでしたが、電気洗濯機がきて、アカギレは無くなりました。まさに「電化は文化」だったのです。
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■ 快適・便利の追求 高度経済成長の一翼を担う電化製品。 |
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東京オリンピックが行われた1964年頃を境に日本は高度経済成長の道をひた走り始めます。実用面での普及をすでに成し遂げた電化製品は、「快適さ」と「便利さ」の追求に移って、高度経済成長の一翼を担います。 1960年に開始されたテレビのカラー放送は、数年でモノクロテレビを放逐します。民放局が次々に開局され、放送内容は娯楽性を強めてゆきます。放映時間は深夜に及ぶようになり、社会・文化に与える影響度を(良きにつけ悪しきにつけ)増してゆきます。民放のCMには、膨大なエネルギーが注ぎ込まれ、電化製品や自動車や化粧品等の消費拡大の役割をも担います。1975年には国産初の家庭用VTR(ビデオレコーダー)が発売されます。テレビにビデオを繋いで録画しておいて、休日には好きな映画を楽しむなど、電化製品は生活スタイルをも変えて行きます。 1961年には国産初の電子レンジ(松下電器産業)が発売されます。歩調を揃えるように冷蔵庫も大型化して行きます。電子レンジと冷凍冷蔵庫の普及は、冷凍食品の普及をも促します。冷凍食品は、この頃流行し始めたインスタントラーメンと共に、日本の食文化を大きく変えて行きます。余談ですが、1970年には、日本初のファミリーレストランであるスカイラーク東京府中店が開設され、翌年にはマクドナルド第1号店が銀座で営業開始します。食品への合成添加物の使用量が急拡大するのも1970年ごろからのことでした。 日本初のウインド型ルームエアコン(日立製作所)が京都の都ホテルに納入されたのは1952年のことでした。その後しばらく、エアコンの普及は緩やかなものでしたが、1964年頃から始まるビルの建設ラッシュに歩調を合わせて急速に普及して行きます。 1970年代中頃からは、一般家庭での普及が進み初め、1990年には1軒に平均1.5台、2000年には2.5台という驚異的な伸びを示します。1970年代中頃から流行し始めたプレハブ住宅やアルミサッシとあいまって、部屋はますます高気密化し、室温は年中一定になるように機械によってコントロールされるようになります。しかし、1970年代中頃から、エアコンの普及率に正比例するように、児童のアレルギーが増大し始め、1980年代中頃には4人に一人の児童がアレルギーという異常事態に至ります。しかし、高気密への反省が生まれるのは、2000年を過ぎてからのこととなります。 1969年にはNHKのFM170局が本放送を開始します。同じ年に、初の民間FM局、愛知音楽FMも開設されます。FM放送の良い音質は、オーディオ機器の普及をも促します。1981年にソニーが「ウォークマン」の販売を開始します。ヘッドホーンで聴く、この再生専用ステレオ・テープ・レコーダーは若者の間で爆発的に流行します。いつでも、どこでも気軽に音楽を楽しむ‥‥という、新しい生活スタイルがここから始まります。翌1982年にソニーとフィリップスによって発売開始されたCD(コンパクトディスク)は、従来のアナログ録音をディジタル化することによって雑音を完全に消すという快挙を成し遂げます。この流れは、やがて映像とも結合してDVDへと進化して行きます。「いつでも、どこでも、気軽に」は、音楽や映画を(特に若者向けに)日常化・大衆化しましたが、「非日常的な場面で深く味わう」ことからは遠ざける役割をも同時に果たすことになります。 |
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■ 原発登場 電力需要の増大に応えて原発登場。 |
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電化製品の普及は電気消費量の増大を必然的に招きます。1972年に年間500億kwh(キロワット時)弱だった家庭用電力消費量は、1999年には1909億kwhに――つまり27年間の間に約4倍に膨れ上がります。家庭用電力消費だけが増加したわけではなく、産業用と業務用の電力消費も同じように増加してゆきます(家庭用電力消費量の全電力消費量に占める割合は約3分の1です)。その結果、1970年以降、日本の電力供給は慢性的に逼迫する状況に追い込まれ、原発(原子力発電所)の建設が焦眉の課題として浮上しました。 1956年、イギリスは世界初の実用規模での原子炉「コールダーホール」の稼動を開始しました(但し、主目的は原子爆弾用のプルトニウウム生産であり、発電はプルトニウムの原価を下げるための副産物でした)。それから10年後の1966年7月、日本原子力発電の東海発電所(16.6万kw)が営業運転を開始します。この原子炉は英国から導入したコールダーホール型の黒鉛減速型でした。 続いて米国から導入した軽水炉型である日本原子力発電の敦賀1号(35.7万kw)、関西電力の美浜1号(34万kw)、東京電力の福島1号(46万kw)が、1970年から71年にかけて相次いで営業運転を開始します。多発するトラブルや1986年のチェルノブイリ原発事故に触発されて安全を危ぶむ声が高まる中でも、原発の新設は続けられ、2002年4月には全国で52基、4574万kwの設備容量を有し、電力需要の3分の1を供給するに至ります。 電力需要の増大が電力供給を求め、供給がまた需要を生む‥‥という構図の下で日本の電化には拍車がかかり、「モウ、ドウニモトマラナイ」勢いが付いてゆきます。「快適・便利を得ることは何かを失うこと‥‥」と認識して、「失うものの大きさを秤にかけながらゆっくりと得てゆく」という知性は見事に忘れ去られます(私も忘れた一人です)。得るスピードが速すぎたのでしょう。失ったものの大きさを社会が認識するのは、取り返しがつかないくらいに失った後のことになります。
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■ マイコン登場 マイコンの登場により電化製品の自動化が進む。 |
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1964年には国産初の電卓(シャープ電気)が発売されます。1辺が42cm以上の(今日の電卓からすると)巨大なもので、50万円もする高価なものでしたが、驚きを伴って歓迎されました。1971年、更なる小型化を求める日本の電卓メーカーの注文に応えて、米国インテル社は4ビット・マイクロプロセッサー(マイコン)を開発しました。 インテルは1972年には8ビットマイコン、1977年には16ビットマイコンを発表します。1981年には、インテルとヒューレットパッカード社が32ビットマイコンの販売を開始――これらをCPU(中央演算処理装置)に組み込んで小型化されたコンピューターはパーソナル・コンピュータ(パソコン)と呼ばれて、急速な開発・普及が進みます。 日本では1979年にNECが8ビットパソコンPC8001を販売開始。5年後には年間生産台数182万台(20社合計。内67万台は輸出)と急成長を遂げます。パソコンの技術進歩と普及は1980年代後半から更に加速されて、今日のパソコン全盛時代に至ります。 マイコンの大衆化は、パソコンに先んじて、TVゲームで進んでいました。米国では1975年頃から多数のベンチャー企業がTVゲームを開発して日本にも輸出していました。1979年に日本で作られたマイコンTVゲーム“インベーダー”は多数の喫茶店に設置されて大流行となりました。1983年に任天堂が“ファミコン”という名前で家庭用TVゲームの販売を開始してから本格的なTVゲーム機の普及が始まります。TVゲームはたちまちの内に子供たちを虜にしてTVの前に釘付けにします。屋外で遊びまわる子供たちの姿は少なくなりました。 マイコンがもたらしたもう一つの大きな変化は“自動化”です。マイコンによる自動化は先ずは産業界から始まり、製造や開発の様相を一変させます。少し遅れて家庭用と業務用の分野に自動化の波が押し寄せます。1977年にシャープ電気は4ビットマイコンを組み込んだ電子選局装置付きのTV受像機を販売します。同年にはマイコン制御の全自動洗濯機も発売されました。その後、エアコンやオーディオ機器、カメラ、自動車等にもマイコンが組み込まれ、リモートコントロールできるようになりました。マイコンによる自動化は、トイレの給水、駅の改札、飲料水やタバコの自動販売機のように、業務用の分野にも広がって、雇用形態をも変えてゆきます
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掃除ロボット登場。 |
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1970年、象印は温度をマイコンで一定に制御する「電子ジャー」を発売します。その後、電子ジャーを改良した「電子ポット」を発売しました。このポットもよく売れましたが、テレビCMに使った「押すだけ!」という言葉は、ポットよりもヒットしました。自動化を歓迎する世相の反映でしょう。「押すだけ」で確かに適温のお湯は出てくるのですが、押すためにはポットのところまで歩いて行かなければなりませんし、水量が足りなくなったら足しておく必要もあります。まだ十分に「快適・便利」ではありません――座っていてもポットの方から近づいてくるし、水が足りなくなれば、勝手に足してくれる――こうなると本当に「押すだけ」――こういう「電子ポット」はまだ商品化されていませんが、その内に現れそうです。「快適・便利」の追求は、明らかに「オール電化」と「オール自動化」の方向にまい進しているからです。部屋を勝手に掃除してくれる「掃除ロボット」も、電波を勝手に探して勝手に時刻合わせをしてしまう「電波時計」も、外出先から電話で操作できる「自動調理器」も、「開け」と声をかけると開いてくれる「自動カーテン」も、お年寄りの話し相手になってくれる「介護ロボット」も‥‥‥すべて実用化済みです。「オール電化住宅」という言葉もテレビのCMに現れ始めました。 もう一つの流行技術は「情報家電」です。例えば「インターネットに接続されたパソコンが組み込まれた冷蔵庫」といった具合です。これらの「ユビキタス」や「情報家電」に象徴される「オール電化」が、どうやら、日本の電化が向かう方向のように見えます。 潜水艦ノーチラス号の艦内も、「オール電化」でした。駆動力も電気です。膨大な電力を消費しますが、ノーチラス号の電力は、(ネモ船長曰く)「そうですよ、ナトリウムを水銀と混ぜると、ブンゼン電池の亜鉛の代用となる合金ができます。水銀はけっして減りませんが、ナトリウムだけが減ります。でも、海がそれを供給してくれるのです」(江口清訳、集英社)から、枯渇の心配も、原子力のような不安もありません。「ところでこの海は、アロナックスさん、このおどろくべき養い手は、わたしを養ってくれるばかりか、衣服さえ提供してくれるのです。あなたの着ている服地は、ある貝類の足糸で織ったものです。紫貝の染料で‥‥(中略)‥‥、あなたのインクはコウイカやヤリイカの分泌した液です。いまわたしの所有するものはすべて海からきていますが、やがていつかは、すべて海へかえるでしょう!」から、海を汚す心配もありません。今日流に言うと「完全循環型」です。―――ジュール・ベルヌが1869年に書いた空想小説「海底2万里」の話です。1867年に日本から旅立った、“完全無欠”のノーチラス号は、1868年――電化元年――にノルウェー沖で難破しました。 |
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『愉しい非電化』より抜粋 |
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